必然的に彼からは探し始める。こっそりのこの壁を抜ける方法を。
行き着いた先が
そう”カンニング”である。
王道で戦えないなら邪道。当然の発想であった。しかしながらそこには疑問が伴う。
すなわち”どうやって”カンニングするのか?である。
出題側も、受験生のこういった動きを感知しあらゆる手段を打ってきた。
一つの試験会場につき数十箇所の監視カメラがおかれ、あらゆる電子危惧は没収された。
試験開始前には身体検査があり、体に直接何かを書き込むことも難しかった。
外部から何かを持ち込むことは不可能。ならばはじめから何かを忍び込ませておけば良いのでは?そう考えた受験生がいた時代もあったらしい。前日までに試験会場に忍び込み自分だけが分かるような情報を会場内に残しておく。それを堂々と当日見ればカンニングだ。
そのため試験会場は24時間365日監視されている場所。例えば美術館などに指定された。
それから数十年。奇抜なアイデアで世間を騒がすことがあったものの、翌年にはその対策が練られてしまい、長続きするものはほとんど無かった。
しかしある画期的な技術が世に公表されると、それはカンニングの争い、そしてカンニングの定義まで巻き込んだ一大事件へと発展した。
それは当初は脳の治療に使われていた技術だった。脳というのはそれぞれのシナプスの間を電気信号が走ることによって働く。その電気信号を人工的に外部から送り出せないのか?
例えば記憶障害の患者が再び記憶を呼び起こすような信号を送れないだろうか?
そのような観点からのスタートだった。さらに時がたち、その技術の進歩がめまぐるしかった。
脳というのは人間の全て動きを司る。それを自由に操れるということは人間の限界を自由に出来るということに等しい。各国の研究費は他のそれと比較すると莫大なものだった。
この技術がカンニングに応用されるのに時間はかからなかった。
何しろ脳の内部に電気を送るのだから誰にもばれるはずが無い。テスト前に出来るだけの記憶量を脳に流し込めば無事に終わる。完全犯罪である。
技術がまたさらに伸びれば、その技術にかかる費用はさらに安価になり大衆化される。この流れを誰も止められなかった。ならば出題側はどうするのか?
それを見込んだ上で問題を作るしかない。
つまりその技術を用いたことを前提に、その上で差が出るようにする必要があった。
ここで言う”差”というのもまた意味合いが変化した。
以前なら”試験の点数の差”とはすなわち”勉強量または質の差”である。