かつてこの世界は学歴社会だった。出身大学によって就職先が決まり、就職先によって給料や地位が決定された。良い大学に入るには良い高校に入り、良い高校に入るには良い中学に入る。
全ての基準は学力であった。ごく稀に文化的にまたは身体能力的に優れているものはその壁を越えることが出来たが、きわめて稀有な例外となっていた。
それから数百年。既に今の世界は学歴社会ではない。
”超”学歴社会である。
かつては学歴によって決まるのは、突き詰めれば”金”である。裏を返せば”人間性”といったものはそこから切り離されて考えられていた。
しかし今は学歴と人間性までも深く結びついて考えられている。学力が無いものは人として劣っているというレッテルが貼られ、周りから差別され、蔑まれるようになった。
学歴を縦軸としたヒエラルヒーが完成したのだ。
そうなると誰もが学歴を求めだす。それを決めるのは昔と変わらない。
”入試”だ。
そこでの点数によって将来の収入、人間性、ひいては自分の存在意義までもが決定してしまうのだ。数百年前とは”入試”の持つ意味が大きく変わっていた。より巨大に、より重要な、人生の中で避けることの出来ないイベントになってしまったのだ。
”入試”を人生における”壁”と喩えることがある。それは現在もそうであり、数百年前もそうだった。その時代に有名であった歌手は「高ければ高い壁の方が登ったとき気持ち良いもんだ。」と歌ったらしい。
その歌手が果たして”入試”のことを想定して歌詞を作成したのかは定かではないが、これを聴いた数百年前の受験生たちは心を奮い立たせ勉学に励んだらしい。
さて、そんな”壁”として入試であるが、つまりは”自らの前に立ちふさがるもの”という解釈が出来る。
”乗り越えなければならないもの”と言っても良い。
当時の人々は前述したような歌を聴き、または自らの将来を夢見てその壁を乗り越えた。
事実、それは乗り越えることが出来るものだった。
良い意味で、”努力すれば手が届くちょうど良い高さ”だったのだ。しかし、現在の”超”学歴社会。その壁は圧倒的な高さを誇る。
人口の増加、教育システムの洗練化、受験への関心の高まりによって大量の人間がより効率的に学力を上昇させた。
そうなると当然、入試問題のレベルも高くなる。するとさらに受験生にはより高度な知識が求められるようになる。
さきほどの”壁”を例によるなら、人々がその壁を超えようとする場合というのはその壁が届く高さにある場合だ。明らかに無理な大きさならどうするか。二つに分かれる。
諦めるか、抜け道を探すかだ。
残念ながら人々に”諦める”という選択肢は無かった。それはつまり自分の将来の放棄、自殺のようなものだったからだ。
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