2012年7月7日土曜日

未来のカンニング③

しかしいまやそれは”どれだけ脳に情報を信号として送るかの差”になった。



つまり効率よく送る方法が模索され始めた。

脳に送れる信号の許容量が幼少期の育て方で増えると聴けば、親はそろって専門のスクールに通わせる。

信号の伝達の効率を上げるために適した時間帯やリラックスの方法などの情報も流布された。

中には詐欺まがいの情報もあり、人々はいかに効率良く大量の情報を頭に収めるかに悩み、探し続ける。



あるとき一人の歴史研究者が主張した。勉強から電気信号へ手段が変わっただけで、我々がしていることは昔と一緒ではないのかと。



だが、その意見は大量の情報の中に埋もれ聞こえなくなる。

2012年7月6日金曜日

未来のカンニング②

必然的に彼からは探し始める。こっそりのこの壁を抜ける方法を。



行き着いた先が



そう”カンニング”である。



王道で戦えないなら邪道。当然の発想であった。しかしながらそこには疑問が伴う。



すなわち”どうやって”カンニングするのか?である。

出題側も、受験生のこういった動きを感知しあらゆる手段を打ってきた。

一つの試験会場につき数十箇所の監視カメラがおかれ、あらゆる電子危惧は没収された。



試験開始前には身体検査があり、体に直接何かを書き込むことも難しかった。



外部から何かを持ち込むことは不可能。ならばはじめから何かを忍び込ませておけば良いのでは?そう考えた受験生がいた時代もあったらしい。前日までに試験会場に忍び込み自分だけが分かるような情報を会場内に残しておく。それを堂々と当日見ればカンニングだ。

そのため試験会場は24時間365日監視されている場所。例えば美術館などに指定された。



それから数十年。奇抜なアイデアで世間を騒がすことがあったものの、翌年にはその対策が練られてしまい、長続きするものはほとんど無かった。



しかしある画期的な技術が世に公表されると、それはカンニングの争い、そしてカンニングの定義まで巻き込んだ一大事件へと発展した。



それは当初は脳の治療に使われていた技術だった。脳というのはそれぞれのシナプスの間を電気信号が走ることによって働く。その電気信号を人工的に外部から送り出せないのか?



例えば記憶障害の患者が再び記憶を呼び起こすような信号を送れないだろうか?



そのような観点からのスタートだった。さらに時がたち、その技術の進歩がめまぐるしかった。

脳というのは人間の全て動きを司る。それを自由に操れるということは人間の限界を自由に出来るということに等しい。各国の研究費は他のそれと比較すると莫大なものだった。



この技術がカンニングに応用されるのに時間はかからなかった。

何しろ脳の内部に電気を送るのだから誰にもばれるはずが無い。テスト前に出来るだけの記憶量を脳に流し込めば無事に終わる。完全犯罪である。



技術がまたさらに伸びれば、その技術にかかる費用はさらに安価になり大衆化される。この流れを誰も止められなかった。ならば出題側はどうするのか?

それを見込んだ上で問題を作るしかない。



つまりその技術を用いたことを前提に、その上で差が出るようにする必要があった。



ここで言う”差”というのもまた意味合いが変化した。





以前なら”試験の点数の差”とはすなわち”勉強量または質の差”である。

2012年7月5日木曜日

未来のカンニング①

かつてこの世界は学歴社会だった。出身大学によって就職先が決まり、就職先によって給料や地位が決定された。良い大学に入るには良い高校に入り、良い高校に入るには良い中学に入る。

全ての基準は学力であった。ごく稀に文化的にまたは身体能力的に優れているものはその壁を越えることが出来たが、きわめて稀有な例外となっていた。



それから数百年。既に今の世界は学歴社会ではない。



”超”学歴社会である。



かつては学歴によって決まるのは、突き詰めれば”金”である。裏を返せば”人間性”といったものはそこから切り離されて考えられていた。

しかし今は学歴と人間性までも深く結びついて考えられている。学力が無いものは人として劣っているというレッテルが貼られ、周りから差別され、蔑まれるようになった。

学歴を縦軸としたヒエラルヒーが完成したのだ。



そうなると誰もが学歴を求めだす。それを決めるのは昔と変わらない。



”入試”だ。



そこでの点数によって将来の収入、人間性、ひいては自分の存在意義までもが決定してしまうのだ。数百年前とは”入試”の持つ意味が大きく変わっていた。より巨大に、より重要な、人生の中で避けることの出来ないイベントになってしまったのだ。



”入試”を人生における”壁”と喩えることがある。それは現在もそうであり、数百年前もそうだった。その時代に有名であった歌手は「高ければ高い壁の方が登ったとき気持ち良いもんだ。」と歌ったらしい。

その歌手が果たして”入試”のことを想定して歌詞を作成したのかは定かではないが、これを聴いた数百年前の受験生たちは心を奮い立たせ勉学に励んだらしい。



さて、そんな”壁”として入試であるが、つまりは”自らの前に立ちふさがるもの”という解釈が出来る。

”乗り越えなければならないもの”と言っても良い。

当時の人々は前述したような歌を聴き、または自らの将来を夢見てその壁を乗り越えた。

事実、それは乗り越えることが出来るものだった。

良い意味で、”努力すれば手が届くちょうど良い高さ”だったのだ。しかし、現在の”超”学歴社会。その壁は圧倒的な高さを誇る。

人口の増加、教育システムの洗練化、受験への関心の高まりによって大量の人間がより効率的に学力を上昇させた。

そうなると当然、入試問題のレベルも高くなる。するとさらに受験生にはより高度な知識が求められるようになる。



さきほどの”壁”を例によるなら、人々がその壁を超えようとする場合というのはその壁が届く高さにある場合だ。明らかに無理な大きさならどうするか。二つに分かれる。



諦めるか、抜け道を探すかだ。



残念ながら人々に”諦める”という選択肢は無かった。それはつまり自分の将来の放棄、自殺のようなものだったからだ。